3月11日に発生した東北関東大地震で被災された方々に
心よりお見舞い申し上げます。
(有)竹村は、自分たちに出来ることは何かを考え、
心ばかりの義援金を日本赤十字社を通して3/15にお届けしました。
被災地の一日も早い復興を心よりお祈りしています。
義援金窓口 郵便局・ゆうちょ銀行
口座記号番号 00140-8-507
口座加入者名 日本赤十字社 東北関東大震災義援金
取扱期間 平成23年3月14日(月)~平成23年9月30日(金)
※寄付金額は、2,000円以上から受け付けています。
※詐欺義援金募集にご注意ください。
[担当窓口]日本赤十字社 東北関東大震災義援金担当
Tel: 03-3437-7081 E-mail: info@jrc.or.jp
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☆よびりんさん『愛と勇気の群像』
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温かい食事は被災者に。自身は冷たい缶詰の食事をする自衛隊員
親、兄弟を、この震災で亡くした隊員も、職務優先で出動しています。
地震や津波といった天災において、現地救援、医療、炊事、物資調達、
補給支援まで、自己完結型で出来る組織は自衛隊のみです。
ボランティアを志す人に~気付きたいこと
☆nak1さん『ボランティア大嫌い 』
☆40歳からの仕事術さん『僕は、本当に変われるのか・・・・・?』
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未来を、復活を、復興を期したい。しかし、何かが違う。いままでの価値観、思考、行動の延長線上で頑張るので良いのか?否。大いなる人としての価値観の転換を要請されているんではなかろうか。自分の過去を深く悔い。そして、改めたい。
何か、自分が非連続に変わらなければいけないような予感を感じる。まだまだ、こだわっているようだ。いままで作った自分というものに。早く否定しなくては。新しい軸で未来に立ち向かわなければ。魂からの声が聞こえる。
捨てるのは、一番大きな意思を必要とする。自分の創り上げてきた過去を捨てるのは辛すぎる。悪いことを悔い、改めるときには、良いものも捨て去らなければいけないのかもしれない。自分改善、成長ではない。全く違う自分への変身なのかも知れない。
いま、未来を作る貢献のために、本当に自分が変われるかが問われているような気がします。本当に、僕は変われるのか?突きつけられた課題は、大きい。
ユトプスさんの情報
☆亡 平井憲夫氏
『原発がどんなものか知ってほしい』
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平井憲夫
私は原発反対運動家ではありません。二十年間、原子力発電所の現場で働いていた者です。原発については賛成だとか、危険だとか、安全だとかいろんな論争がありますが、私は「原発とはこういうものですよ」と、ほとんどの人が知らない原発の中のお話をします。そして、最後まで読んでいただくと、原発がみなさんが思っていらっしゃるようなものではなく、毎日、被曝者を生み、大変な差別をつくっているものでもあることがよく分かると思います。(以下省略)
☆シャルドネさん『地震と原発本当に怖い話 』
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~帝王学の書~3月29日の『易経一日一言』(致知出版社)
☆随所に主たり☆
天の下に雷(らい)行き、物ごとに无妄(むぼう)を与う。
先王もって茂(さか)んに時に対し万物を育(やしな)う。
(天雷无妄)
自然は人間に恩恵とともに地震・洪水など天災も与える。
「時に対し万物を育う」とは、非日常的な禍の時であれ、
為すべきことを為し、社会をよくしようとすること。
もし人が自然体であったら、自然はすべてを教え、与える。
どんな状況下でも時の主でいることができる。
天雷无妄(てんらいむぼう)の教えは
禅語にある「随所に主たり」に通ずるものといえよう。
※以下は追加です。
~帝王学の書~4月16日の『易経一日一言』(致知出版社)
☆習 坎(しゅうかん)☆
習坎は、孚(まこと)あり。
維(こ)れ心亨(とお)る。
行けば尚(たっと)ばるることあり。
(坎為水)
坎為水の卦は易経六十四卦の中の四大難卦の一つ。
非常な険難の時を表す。
「習坎」の「坎」は土が欠けると書いて、穴。
「習」は習う、繰り返す。
つまり、穴また穴に陥るというわけで、
苦しみが一層の苦しみを呼び、繰り返すことをいう。
それほどの苦しみをどうやって脱すればいいのか。
「孚」は、約束事、信じる心、信念、
そして誠心誠意の真心などの意味がある。
「維れ心亨る」とは、
この苦しみを必ず脱する時が来ると信じること。
そのようにして苦難と真っすぐに向き合い、耐え続けたならば、
その誠心と信念によって、いかなる険難をも乗り越えられるというのである。
人は誰しも、できれば険難に陥りたくはないと思うものだが、
その一方で、苦しみほど人を育てるものはない。
この坎為水の卦は
別名「習坎(しゅうかん)」と呼ばれる。
険難の時に繰り返し習うことを意味するこの言葉を
先人は畏(おそ)れ、尊んできたのである。
★「江守徹の朗読で楽しむ易経入門」
第4弾『兆しを観る~風地観・火風鼎』
「見る」は目に見えるモノを見る。
「観る」は、心の目で観る。
洞察力で観る、の意。