日本で初めての「サン・ジョルディの日」が実現!~サン・ジョルディの日~日本導入顛末記・後編

作成日:2015年4月13日

『サン・ジョルディの日~日本導入顛末記・後編』
2014年日本で29年目!
4月23日は『サン・ジョルディの日』!
~女性は愛する男性に本を贈り、男性は愛する女性に花を贈る~
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 ※『サン・ジョルディの日~日本導入顛末記・中編』
  の続きです。
 10.流石!プロの仕事師たち
帰国してすぐの5月のある日、
横浜は有隣堂の社長、故松信泰輔氏に出逢ったことで、急展開した。
松信氏は当時の日本書店組合連合会会長。
松信氏の妹、非常に勘の鋭い篠崎孝子有隣堂専務の導きだった。
卓抜した先見性と洞察力を持つ松信氏は、ふだんから絶えず、
活字文化の復活、復権、活字離れをどう防ぐか、
出版文化の危機・・・などを考えていた。
一瞬にして全体像をつかんだ松信氏の
強力なリーダーシップの下で中央・地方を含めて
何十回となく会議を重ね、骨組みが出来上がっていった。
スペインの空港で私を「詐欺師」と疑った谷社長だったが、
帰国後の八面六臂の大活躍振りには目を見張らされた。
谷社長の卓越した情報収集力と智略縦横な判断のもとで、
私も一緒に東奔西走した。
書店業界と生花業界、外務省や文部省その他の役所関係や行政、
そして経済界や文化人への働きかけ…など。
 
そのひとつひとつの場面で臨機応変にこなしていく能力は、
流石であった。
素晴らしい人々との出会いも会った。
数年分の修行をたった一年で体験できたような気がする。
 
☆後になれば笑い話だが、
日本の「サンジョルディの日」が実現する半年前のこと。
1985年の秋、プジョール首相と通産大臣が来日した。
東京のスペイン大使館の歓迎レセプションのディナーで
隣の席に座っていたカタルーニャの通産大臣に
来年、日本でサンジョルディの日を開催することを話した。
大臣は一瞬、怪訝な表情を浮かべた後、ニャッと笑い、
「そうか、何処かの小さな町で本とバラの交換をするんだね」と言った。
「いいえ。日本全国の七つの都市で。」と答えても、
キョトンとして、まったく信じてもらえなかった・・・(笑)
 11.日本で初めての「サン・ジョルディの日」が実現!
翌年、日本ではじめての「サン・ジョルディの日」がスタートした。
1986年4月23日直前の土、日曜である19、20日。
全国七つの都市(札幌・仙台・東京・横浜・名古屋・大阪・福岡)
の公共広場でイベントを2日間にわたり展開。
日本カタルーニャ友好親善協会、日本書店組合連合会が主催。
日本書籍出版協会、日本雑誌協会、日本出版取次協会、
読書推進運動協議会、日本図書普及などが協賛。
日本生花商協会、JFTDは、後援。
外務省、農林水産省、通産省、文部省、駐日スペイン大使館、
スペイン・カタルーニャ地方自治体が、後援。
主催者の招きでカタルーニャからやって来た、
身の丈4メートルもあるヒガンテス(巨大人形)四体が、
ひなびた笛と太鼓の楽隊の先頭で練り歩いて人気を呼んだ。
日本の「愛のサンジョルディ」のイベントを
カタルーニャのテレビ局が取材に来ており、
七つの都市で収録したものを一時間番組にして
カタルーニャで放映したが、物凄い反響があったという。
4月23日当日、カタルーニャのサクラダ・ファミリアから
歴史上はじめてという衛星中継が行なわれ、
財津和夫をリーダーとするチューリップが出演、
キャンペーンのイメージソングである
“くちづけのネックレス”が日本のテレビで放送されるなど、
業界はじまって以来の大規模な取組みとなった。
☆もう一度!(笑)
後になれば笑い話だが、
日本の「サンジョルディの日」が実現する半年前のこと。
1985年の秋、プジョール首相と通産大臣が来日した。
東京のスペイン大使館の歓迎レセプションのディナーで
隣の席に座っていたカタルーニャの通産大臣に
来年、日本でサンジョルディの日を開催することを話した。
大臣は一瞬、怪訝な表情を浮かべた後、ニャッと笑い、
「そうか、何処かの小さな町で本とバラの交換をするんだね」と言った。
「いいえ。日本全国の七つの都市で。」と答えても、
キョトンとして、まったく信じてもらえなかった・・・(笑)
 12.‘92年オリンピックはバルセロナで開催
    日本の功績が評価され「世界本の日」に!

しかし、白状すると私は、サン・ジョルディの産みの親だが、
この新生児を育てなかった。薄情な母親である。
 
サンジョルディの日を、
ここまで育ててくれた“育ての父親”達がいたからこそ、
イベントとして根付いたに違いない。
 
そして無論、私の予見したとおり
‘92年オリンピックはバルセロナで開催された。
10年後の1996年、日本での功績が評価されて
4月23日を”世界本の日”として、ユネスコに指定された。

 13.『サンジョルディ 祝25周年 セレモニー』
2010年4月、
『サンジョルディ フェスティバル
 祝25周年 セレモニー』が開催された。
私は札幌易経セミナーで欠席、
かわりに以下のメッセージが読み上げられた。
~~~~~~~~~~~~~
「サン・ジョルディフェスティバル」25周年、おめでとうございます。
「サン・ジョルディの日」が日本に定着して25年…、四半世紀にもなるんですね。
感慨無量です。
わたしが初めて「サン・ジョルディの日」のことを知ったのは、1984年の年末でした。
いまとは違って、インターネットで情報収集するなんて技はなく、
スペイン大使館員からも「そんなお祭りがあるんですか?」と聞き返されたほどでした。
とりあえず行くしかない。と決めて、2ヵ月後にスペインに渡ったのですが、
私にとって、それが初めての外国、海外旅行でした。
紹介者もいないし、カタルーニヤ政府に信用してもらえなかったらどうしよう!!
というわけで急遽、「日本カタルーニア友好親善協会準備委員会」という名前を思いつき、名刺を作りました。
結果、信じられない程のツキに恵まれて、政府高官に会えました。そして2ヵ月後の本物の「サン・ジョルディの日」に招待され、また、プジョール首相との会見を取り付けることまで出来ました。
この頃、私の雲を掴むような話に耳を傾けてくれたのが、新東通信の谷さんでした。
「おもしろい! やろう!!」 このノリ、素敵でしょ?
一年後、西川理事長、亡くなられた日書連の松信会長はじめ、多くの方々のご協力で
日本での「サン・ジョルディの日」が実現したのでした。
そう! アイデアは実現されて初めて生かされる。
実現しなきゃ私も詐欺師で終わっちゃうところでした。
でも実は、谷さんからも一瞬、「あのオンナは天才的な詐欺師だ」と疑われることがあったのです。
このエピソードは、今では笑い話ですが、長くなるので割愛します。
さて、当時まだ35歳と若かった私も、昨年還暦を迎えました。
いま振り返って、なんてオッチョコチョイだったんだろう?
と思える私は、多少は大人になったのでしょうか。
   日本カタルーニヤ友好親善協会理事 竹村亞希子
~~~~~~~~~~~~~
      ☆
【サン・ジョルディ伝説】
スペイン・カタルーニャ州に中世から伝わる物語。
サン・ジョルディは、魔物から村を守り、姫を救った勇気ある騎士。
剣を一突きで魔物を打ち倒した時に血から真赤なバラの花が咲き、
男性から愛する女性に愛の証しとして赤いバラを捧げる習慣が生まれました。
一方、女性は愛する男性に本を贈ります。
サン・ジョルディが愛と知性の象徴であるため、シェイクスピアや
文豪セルバンテスの命日が4月23日であることから、
本を贈るようになったといいます。
(赤いバラに青い麦の穂を添えるのは、若い力、エネルギーを
象徴しているとともに子宝に恵まれるように・・・
という願いがこめられている、という説もあります。)

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