【佐久間象山に非業の最期を告げた卦~幕末維新の人物】
佐久間象山が殺される前に
自分で立筮して得た卦があります。
それは「澤天夬(たくてんかい)」
変爻は上爻です。
本文
卦辞:
「夬は、王庭に揚(あ)ぐ。
孚(まこと)ありて号(さけ)び
あやうきことあり。」
上爻の爻辞:
「号(さけ)ぶことなかれ。
ついに凶あり。」
☆ ★ ☆
澤天夬~「夬(かい)」は「決する」
「切り開くこと」。
決断の「決」もそうです。
堤が決壊するという場合も、この「決」です。
何かというと、スパッと決める。
思い切ってバシッと決める。
それによって、余分なものを除き去る
というのが「夬」のもともとの意味です。
澤天夬は、陽気が壮んになってきている。
もし人間界に照らし合わせたとしたら・・・
例えば、仮に
陰を小人、陽を君子とします。
そう見れば、君子が伸びてきた。
あくまでも例えですが。
澤天夬を本で読むと
すぐに悪人を退治するとか、小人が亡ぼされるとか、
土壇場で追い詰められて悪事が露見して
周囲から切って捨てられるとか
酷いことが書かれています。
これを組織としてみたとしたら
小人が一番上の位にいるように見えます。
小人と君子に分けて説明しました。
そのほうが解りやすいから。
でも時の勢いというものがあって
君子であっても、その時の勢いに勝てずに
滅ぼされるということがあります。
佐久間象山は小人どころか、
傑出した人物です。
それなのに、澤天夬を得た。
澤天夬の上爻が必ずしも
小人とは限らないわけです。
前置きはこのくらいにして・・・
☆ ★ ☆
以下、佐久間象山の門人であった
北澤正誠・外務省書記官が
高島嘉右衛門に語った話です。
佐久間象山先生は早くから洋学を教え
その傍ら、易学を門弟たちに説いていた。
私も、門下の一人だったので
しばしば先生の講説を聞けた。
あるとき長州藩の吉田松陰氏が
密かに洋行を図り、
外国船での密出国を企てた。
先生はその志を大いに褒め称え
国を憂う悲憤慷慨の詩を作って送った。
松陰の企てが発覚するに及び
佐久間象山先生もまた
幕府の嫌疑を受け、江戸に幽閉させられ
後に本藩、信州松代に遷された。
時勢の変遷により
遂に先生の先見力・達識が大きく世に認められ
先生の難も自ずから解けた。
このとき長州侯が佐久間象山先生の
偉人であることを聞きつけ
木戸孝允氏を仲介して招聘しようとした。
象山先生は固く辞退して応じなかった。
また、薩州侯も先生の名高きを聞き
西郷隆盛氏を仲介して招聘を図ったが
象山先生はまたもや固辞して応じなかった。
元治元年三月、
一橋公(徳川慶喜)が使いを遣し
先生を召された。
佐久間象山先生は初めて応じた。
☆
【弟子に勧められ立筮「澤天夬」を得る】
私(語り手の北澤正誠氏)は
これを聞いて先生にお会いして言った。
北澤:
「先生が一橋公の命を奉じ上京される由。
先生は常に易をたしなみ、
事あるに臨み必ず筮を執られますが、
今回はどのような卦でしたか」
先生曰く:
「易は事物の決断に迷う時に用いるものだ。
今や諸外国がわが国に迫り国は艱難の時。
士たる者、吉凶を問うべき所ではない。
占筮は不要である。」
私(語り手の北澤正誠実氏)曰く:
「確かにそのとおりです。しかし、物事は
決め付けてはならないと言います。
今回のことは大事の場合です。
易にぜひ、問いかけてください」
とうとう象山先生が筮を立て
得た卦は「沢天夬」の上爻でした。
卦辞:
「夬は、王庭に揚(あ)ぐ。
孚(まこと)ありて号(さけ)び
あやうきことあり。」
上爻の爻辞:
「号(さけ)ぶことなかれ。
ついに凶あり。」
象山先生曰く:
「夬の卦は凶だ。しかし、既に約束をした。
今は内外多難の国事に挺身すべきだ。
慎重さを心するほかはしようがない」
そう言って直ちに出立の準備を整えた。
馬の用意だけが間に合わなかったところへ
たまたま、木曽の馬商人が訪れた。
先生は素晴らしい駿馬を見つけ
喜んで高額な値を払い、手に入れた。
☆
【佐久間象山、駿馬を得る】
手に入れた馬は
佐久間象山の意にかなった
素晴らしい駿馬だった。
馬の名前は“都路(みやこじ)”。
都へ上る門出として
先生が自らつけた名前である。
先生は愛馬“都路”に跨り
美濃大垣に到着。
良友の戸田藩老である
小原仁兵衛氏の邸に立ち寄った。
小原仁兵衛氏が先生の上京を祝い
世事の話になり、
談論風発、すこぶる親密であった。
小原氏が先生に問う:
「先生は今、状況の途中ですが
今回の易は何の卦でしたか?」
先生曰く:
「沢天夬の上爻です」
それを聞いた小原氏は
天を見上げ嘆息し
胸中を察する所があるがごとく
再び大きいため息をつき黙した。
☆
【佐久間象山、愛馬の名を“王庭”と改める】
翌朝、佐久間象山先生は
小原仁兵衛氏に別れを告げ京都へ。
都では、公家や貴族の皆々が
先生の名を聞くと直ちに賓客として
礼を尽くして厚くもてなした。
ある日、中川ノ宮が先生を召した。
先生は中川ノ宮に、欧州の形勢や
文武の整備を語っているうちに
騎兵についての事に話が及んだ。
酒席、まさにたけなわとなり
先生は西洋馬具が軽便なことを
中川ノ宮に知って欲しくなり
愛馬“都路”を庭前に牽かせた。
その庭前にて、象山先生が自ら
西洋式の馬術を見事に演じた。
中川ノ宮は大いに喜び賞賛して
さらに親しく酒盃を賜った。
象山先生は感激して曰く:
「私は卑賤より出でし者。
殿下の寵遇をかたじけなく思います。
この喜び、人生の栄誉として
これに変わるものがありましょうか。
今、貴庭において馬術を演じ
鑑賞をしていただきました。
記念として愛馬の名“都路”を改め
“王庭”と名づけます」
※愛馬の名前に注目!!
【佐久間象山
愛馬“王庭”の馬上にて斃(たお)る】
厚く幾度もお礼をのべながら
象山先生は中川ノ宮邸を辞した。
名が改まったばかりの愛馬“王庭”に
跨り、帰途についた。
三条木屋町筋に至ったその時、突然
待ち伏せしていた尊攘派浪士達が現れ
象山先生を取り囲み、襲った。
1864.7.11
佐久間象山先生、馬上にて斃る。
享年54歳。
私(語り手の北澤正誠・外務省書記官)は
藩邸にいて、その訃報を聞いた。
後、佐久間家は断絶。
「沢天夬」卦辞:
夬は、王庭に揚(あ)ぐ。
孚(まこと)ありて号(さけ)び
あやうきことあり。」
終わり
【幕末維新の人物-佐久間象山 プロフィール】
佐久間 象山(さくま しょうざん)
〔文化8年2月28日(1811.3.22)-元治元年7月11日(1864.8.12) 〕
幕末期の兵法家・思想家。松代藩(長野県)下級武士、佐久間一学(父)荒井六兵衛
の娘まん(母)の子として生まれる。通称:啓之助、修理。雅号:象山、子明。
若年期、家老鎌原(かんばら)桐山から儒学を、町田源左衛門から和算を学んだ。
天保4(1833)年江戸に出て、当時儒学の第一人者である佐藤一斎に朱子学を学び、
梁川星巌と親しく交わった。天保7(1836)年松代藩へ帰藩するが、天保10(1839)年
再度、江戸に出てきて、神田お玉が池の梁川星巌宅の隣に開塾する。
天保13(1842)年松代藩主真田幸貫が海防掛老中になると、顧問として海外事情の
研究を命じられ、海防問題を研究する。伊豆韮山代官江川坦庵(太郎左衛門)に西洋
兵学を学び、また藩主に「海防八策」を提出した。
嘉永3(1850)年、深川藩邸で砲学の教授を始め、勝海舟、吉田松陰、橋本左内、
河井継之助ら、多くの有能な人材を門下に集めた。ちなみに、象山の妻は勝海舟の
妹順子である。
翌、安政元(1854)年4月、門下生吉田松陰のアメリカ密航失敗事件に連座して捕ら
えられ、9月国元の松代に蟄居を命じられた。44歳から52歳までの働き盛りの丸8年間
を松代でおくった。その間も西洋研究に没頭し、大砲製造、地震予知、電池の製作、
電信実験などを成功させた。
文久2(1861)年に赦免され、元治元(1864)年3月将軍・徳川家茂に招かれ京に上り、
公武合体論と開国進取論の立場から皇族、公卿、諸侯の間を奔走した。
しかし、孝明天皇の彦根動座を画策したことが原因となり、7月11日三条木屋町筋
において尊攘派河上彦斎らの手により暗殺された。
時に54歳。その後佐久間家は断絶となった。
《参考-京都大学付属図書館維新資料データベース》